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午後の漁港 天空の町コルド |
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リオの船入間 夕焼けのハーバー |
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グラン・カナーレの朝 夕暮れの旧港 |
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アルビの赤い橋 |
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お越しいただいた方への御礼のご挨拶 私も家内も皆様に十分なお話しも出来ずに、失礼を申し上げたことと思いますが、どうかお許し下さいますよう。それにしても、その後は気の抜けた様な状態で過ごしてしまい、お礼を申し上げるのが、すっかり遅くなってしまいました。やはり49点の作品をそろえ、スタジオへ何度も作品を運び、写真を撮り、そのつど原稿を印刷会社に運び、何度も校正を行い、額装に額縁店を廻り、パネルを作り、作品を搬入し・・・と、準備から終了までの工程をこなすにはかなりの体力が必要で、すっかり使い果たしたということかもしれません。実は来年も1月15日から同じギャラリーで第3回の個展を予定しているのですが、次回は少しやり方を考えなくてはなりません。まあ、何事も気力と体力ということで、年齢を忘れてはいけないということなのかもしれません。 何故絵を描き始めたのか、何故パリなのかなど、色々とお尋ねもありましたが、1月9日の放送(1/9『佐藤しのぶ出逢いのハーモニー』)の中でも申しましたとおり、私は2歳のときに両親をなくしております。その父が画家だったことが私のこのような生き方に、なんらかの影響を与えているのかもしれません。何しろ高校のときも美術部ではなく文芸部でしたし、幼馴染や同級生も、NHKでの先輩・同僚も私が絵を描こうとは思ってもいなかったようです。それはその通りで、私自身でさえ4、5年前まではそれほど明確な意思は持っていませんでした。今やっと父とも母とも対話をしている様な気がしています。いつか機会があれば、このあたりのことはもっと詳しく書きたいとも思っていますが・・・。 今回は作品の値段を表示させていただいたのですが、このことについても色々考えました。ジャーナリストや作家には問われない、プロかアマかなどという言い方もありますし、出身大学や、所属会派、受賞歴などが問題にされるなど、わが国の画家の周辺には私には少々日本的と思われる状況もまたあります。そんな思いの中で迷いましたが、私がパリで懇意にしていただいていて、今回のギャラリーで毎年個展をされている先輩画家から、きちんと価格を表示すべきであるというアドバイスもあり、表示をさせていただきました。
絵が上手いか下手か、安いか高いか、売れるか売れないかは全然別の問題で、それが画家の個展でのルールだということでしょう。しかしいろいろ考えることがあります。フランスで歩き廻っているときは考えもしないことでした。ただ無心に描くことが如何に難しいかということでもあります。思いがけず心に浮かぶ邪念もあります。私が尊敬する野見山暁治先生が、個展の前に手紙を下さって、『わたしも余生として絵を描けばよかった。それを業として生きると、余計な功名心にかられるものです。遅まきながら巻き返しを計っております。生まれたときから余生として生きれば最高でした。』と書いてくださりました。
最後にテレビ放送のこともお尋ねが多かったので、不思議ないきさつについてちょっとお話をいたします。フランスから帰って間もない秋の初めに、川越の東京国際大学で『第25回地方の時代映像祭2005』がありました。プロデューサーの村木良彦さんから招待状を頂いて出かけましたが、霞ヶ関駅前で会場までの道に迷っていた方と同道しました。この方と、道々色々お話をしたのですが、私にとても興味を持たれたようで、またお話を聞きたい、いつか飲みませんかというようなことで別れました。この方がテレビ神奈川エンタープライズの寒河江正氏で、TVKの長寿番組『佐藤しのぶ出逢いのハーモニー』のプロデューサーだったのです。しばらくして寒河江さんから電話をいただき、この間の話をもっと聞きたいという出演交渉があり、10月27日に横浜のパンパシフイックホテルで収録となったのでした。初めて道で出会った方との思いがけないいきさつです。
個展の会場でもお読みいただきましたが、人は他人の記憶の中にのみ存在するといいます。私にとっては亡くなった人も生きている人も、私の中ではみんな同じに生きています。 もう一度お礼を申し上げ、皆様のご健康をお祈りいたします。 有難うございました。 2006年2月 |
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※ 参考 TVK佐藤しのぶ出逢いのハーモニー・ホームページ 本展の作品の主な取材地(出品作品数合計49点) パリ市内および近郊、フランス北西部ノルマンディ地方、 1938
1960
NHK入局 以来ディレクター、プロデューサーとして、主として教育・教養番組の制作を行う 2002〜2003 フランス滞在 2004 第1回個展(色彩美術館/東京・原宿) 2005(4〜7)フランス滞在 現在 武蔵大学客員教授
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