ごあいさつ
パリの友人の画家が「赤い雨傘」を見て、映像をやっていた人の絵だといいました。私は長い間メディアの世界にいましたから、絵とは何かを映像(静止画であれ動画であれ)という枠組みの中から発想しているのかもしれません。パリならパリという都市の持つ空間の魅力も、時間や光や空気や音の変化によって様々な姿を見せます。
美しいというよりも、歴史の記憶の堆積が生み出すに違いない何かが、その時の私の心象に合致して、恐ろしいほど魅力的な姿を見せる瞬間があります。暗い敷き石の裏側に潜んでいる何かが、一瞬だけ見せるサインのようなものです。写真と違って絵でそれを提示するのは難しいのですが、ブレッソンのような瞬間の残像の中にある、パリという街の実感を描いてみたいと思いました。「赤い雨傘」のシリーズはそうした小さな試みです。
70歳を超えた異邦人が外国で一人暮らしをするのは、考えればかなり勇気のいることです。様々な小さな失敗や事件には日常的に遭遇しています。日本に居ても同じだという意見もあるでしょうが、何といいますか環境との折り合いの中で、アイデンテティーを保持することが難しいのです。旅行と生活の違いかもしれません。ですが、これもメディアの世界にいたせいか取材者の眼差しだけはいつもあって、好奇心といいますか、見てみたい、近づきたい、知りたいとかいう感情は衰えません。理屈ではありません。
ではその結果、画家として“何を表現したいのか、何を伝えたいのか”となるとどうもワインに酔っているようではっきりしません。が、“異郷”の暗い闇へ向かっている、引き返す気のない(出来ない)自分の後ろ姿のイメージが頭の中にはいつもあるのは何故でしょうか。絵は自画像だということのひとつの証でしょうか。
一昨年の夏、ラスコーの洞窟を訪れました。真っ暗闇の洞窟の奥深くに探り入り、獣脂を焚いたほのかな明かりの中で、あの絵を描いた人類最初の“画家”は、表現者というよりも記録者だったと思いました。“絵”に込められたメッセージは、同時代の人も含め他者に伝えられ、今もなお生き生きとした迫力で見る者に語りかけています。感動しました。しかし、同時に、これらはすべて結果であって、絵を描くのは人間の持つ本源的な一種の衝動である。つまり、人は好きだから絵を描くのだと思いました。絵を描くのに理屈なんかない。ただ黙って描けばいい。国籍も肩書も競争もなく、ただ一人好きに描けばいいのだと。
そんなわけで今回は、去年の秋から冬にかけて、寒さが日増しに益す底冷えのパリで感じた事、考えたことが、まるで取材ノートのように脈絡なく作品になっています。今回もまた、話にならんとお叱りを受ける覚悟です。
そんな私の絵を見て下さり、お持ち下さっている皆様には、あらためて心より感謝申し上げます。
本日はお出でを賜りありがとうございました。
武田光弘 (無所属・日本美術家連盟会員) |